こん日々こんこ

おしりをだしたこ一等賞

8月6日8時15分の電話

去年Facebookに書いたことをこちらにも少し追記して載せておきます。

今年も8時15分の黙祷。

去年(だったかな)父の三回忌の時に父の姉である叔母から聞いた話。

私の祖父は原爆で亡くなったが、当時祖父は広島市の西署で警察官(署長)をしており、爆心地近くの大手町の官舎に住んでいた。
祖母は子ども達(私の父達)と共に市内からかなり離れた庄原の実家に住んでいた。

東京の感覚で言えば中央区と高尾山くらい離れてる感じか。

 

祖母と祖父は1945年8月6日の朝8時15分頃、電話をしようと前もって約束していた。
祖母は家に電話機が無いので近所の郵便局にあった電話機から電話をかけに出かけたのだが
「繋がったと思ったら急に切れてしもうた。掛け直しても繋がらんのよ、おかしいわぁ」と言いながら自宅に戻ってきたそう。

 

1945年8月6日の朝8時15分と言うのはまさに原爆が投下されたその時刻であり、どうやら広島市内に大きい爆弾が落とされたらしいと聞いた祖母は、何日か後にお腹に8カ月の赤ちゃんがいながらも、当時2歳だった父をおぶい、広島市内に祖父を探しに電車で向かう。

 

焼け野原でメチャクチャになった死体だらけの広島市内、身重で2歳の父を連れていた祖母は歩くのも大変だった。

近くにいた駅の方に事情を話すとその人の好意で車に乗せてもらい、夫のいたはずの官舎へ向かう。(多くの人が傷つきながら歩いているのに車に乗せてもらって悪いような気がしたと言う)


そこに着いて、電話機があったであろう場所の前を手で掘ってみると、そこに祖父のものと思われる骨があったそう。
その時なんだかツーンとするような匂いがしたと言う。

私の父はその夜大量の鼻血が出たのだそう。

 

私は、祖父は骨も見つからなかったと何かの記憶違いをしていた。改めて叔母から話を聞けて良かったと思う。

まさに原爆投下のその時刻に、その事を前もって知るはずもない祖母と祖父が電話で話そうとしていた。
祖父は最後の瞬間に、電話線で祖母と一瞬でも繋がっており、そして電話をしていたからこそ、祖母は祖父の骨の場所を見つける事が出来た。

 

それから祖母は教員をし、家の周りの畑を耕しながら一人で子育てする事になる。

そしてその時お腹にいた子は2歳の時、赤痢にかかって死んでしまう。

彼女はどんな思いで夫と子どもを見送ったのだろうか。私の今の年齢とさほど変わらない当時の祖母は。

 

私が中学生の頃に祖母は亡くなったが、原爆の話はあまりしなかった。父も祖母のことを考えたのかあまり話さなかった。当時、被爆者は差別された。積極的に話す人は多くなかった。被爆者の子だと分かると結婚できなかったりした。

幸い私は被爆者の子だと周りに言って差別された事はないが、その可能性は身近にあったのかもしれない。

 

写真は祖父、祖母、叔母さんたち。赤ちゃんが父。

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こちらがディープネットワーク(hi.cs.waseda.ac.jp:8082)

を用いて自動色つけしたもの

 

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